学校に行かないパターンの過ごし方

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2019.03.22

横山 泰三(Yokoyama Taizo)
京都大学博士(総合学術)、カンボジアにて国際機関勤務後、現在は国際機関・海外企業コンサルタント(政策アナリスト・教育開発)
高校生の頃に学校に行かない経験を経て商業高校へ転校し、独学で大学入試受験。

はじめに

 このエッセーでは、「学校に行かないパターン」を選択する際の心構え、勉強の仕方など、技術的な側面にスポットを当てて、私の個人的なパターンをご紹介します。

 自分自身の学校に行かなかったパターンを、あまり誇らしくお話しするのもかえってお恥ずかしく感じます。ここではあまり込み入った当時の話しをせずに、今、振り返って自分が取った当時の行動や考え方の重要だと思うことをご紹介したいと思います。

 とはいえ、今、学校に行かないパターンを選択しようとされている方々に「これが正しいパターンだ」とか「成功の法則だ」などと押しつけがましいことを述べたくありません。むしろ他の人(私)のパターンに靡(なび)かず巻き込まれずに、自分自身の独自のパターンを生み出していくことが重要と思います。学校に行った・行かないの結果ではなく、そこから私たちそれぞれが何を学び、どのように自分を成長させたかのプロセスの方が大事だと思うからです。その点を重々、ご理解いただけましたら幸いです。

心構えとしていた認識

私は15歳の高校一年生のときに学校に行かなくなりました。学校に行かない自分を見出したときに、他の人と自分を比べたりこれからの自分について不安になったりしたのを思い出します。今思えば、「孤独」だったことがその不安の根本要因だったと思います。

 たとえばそれまで朝起きてごはんを食べて服を着る、学校に行けば同じ年齢のみんなと一緒に机に向かって座り、昨晩に見たアニメの話題やゲームの進行について雑談をする。気づけば眼前に先生が現れて必要な授業を提供してくれる……そのような習慣化・自動化された日常のレールから外れてしまった……みんなと違うレールを進んでいる孤独感は相当のものだったと覚えています。

 しかし実際のところ当時の私はもっと幼くて、そのように冷静に学校教育や習慣といったものを対象化してまとめるチカラが無かったと思います。つまりもっと感情的で、言葉に成らないような不安と孤独に溺れそうになっていました。

 「自分は親や先生、周囲の大人たちの言うことに背いて、その結果、独りぼっちになってしまった。いつも顔を合わせる友達もいない。他のみんなは今ごろ『やるべきこと』をやって義務を果たしているが、自分は果たしていない。自分の未来はどうなるんだろう」、そんな孤独な感情と不安が、自分にとって何か罪に対応した罰のように思い、その混沌とした名状できない思いが不安の正体だったように思います。今は自分の学校に行かないパターンが成功した、或いは行かなくなって良かったと思えるようになっています。それ自体が人生のかけがえのない過程(経験)になったからです。

自己の立脚点を確立する

 当時は学校や家庭、周囲の大人に対してたくさん怒りに似た思いがありました。しかし自分の不登校に対して自分自身が責任をもって対応をしていかないと自分はこの不安から逃れられない、ということを認識したことがその後の成功の要因だったと思います。

 当時の自分は周囲の友人や大人に対してとても批判的でした。たとえば「みんな勉強が好きじゃないと口では言っているのに、義務教育の中学校が終わっても当たり前のように高校に進学するのはなぜか」とか「自分のやりたい職業に必要じゃない勉強をなぜ画一的に一方的に押し付けられるのか」「体育の先生はなんで学生を説得せずに殴ってコントロールするんだろう(当時は今と違って体罰が当たり前でした……)」とか、あるいは「親や先生は本当に尊敬できる振る舞いや言葉遣いを日常で実践しているだろうか」「なぜテストの点数だけが評価の尺度で進路が決まってしまうのか」といった疑問がいっぱいで、周囲にとっての当たり前が自分にとっては当たり前ではありませんでした。

 しかし、かといって自分自身の運命や境遇を周囲の人に任せて助けてもらろう、という依頼心はまったくありませんでした。かえって自分が批判している大人の言う通りに物事を運んでしまうと、自分が批判している嫌いな大人達と同じような人間になってしまうわけですから、彼らとは違う何か独自の立脚点に自分自身は立つ必要がある、と強く思っていました。言葉を換えますと、自分自身が何かを批判したり自分の意見や自由(学校に行かないこと)を主張したりするからには、自分の人生を自分が否定してきたものに任せるわけにはいかないと考えたからです。たとえ行きたいけど行かない、行けないとしても、行けない自分の何もかも否定することはできない……自分の尊厳と立場を守るためにも周囲の大人を超えていかないといけない、ということを素朴に思っていました。

 次に、そうしますと自分の立脚点を得て周囲の大人や常識的な学生生活以上のものを自分で独自(孤独)に建設していく覚悟というか、少なくとも自分をコントロールして高めていかないといけない、ということが分かってきました。そのきっかけとしては、私には幸い、学校に行っていない間も会ってくれる友達がいたことが大きいと思います。「お前、なんで学校に行かないの?」という質問に対する説明を、最初は言葉に詰まって答えられなかったのですが、何回か尋ねられるとだんだん言葉にできるようになってきました。自分の感情や客観的状況を言葉に出来る機会があったことが自分の意識を強くするきっかけだったと思います。また日記を書いていたことも、その意味では有意義な習慣だったと思います。もやもやしていた感情を、言葉にすることで明確化できました。

 その結果、「自分は学校生活を送りたい、みんなと遊んだり友達や恋人を作りたい」という隠れていた意志がはっきりしてきて、そのために学校を中退して新しい学校に入学する、という決心ができました。自分が欲している光景(みんなと学校で勉強している光景)を寝る前に妄想したりして、これが目標に定まると、自分は再入学のための受験勉強をしなければならない、という自分のすべきことが分かりました。

 つまり、具体的に自分が何を求めているのか、それを得るために何が必要で、すべきことは何なのか、ということを明確にする、自分を知るということが立脚点の確立のためにまずできることかと思います。

 しかし、すべきことに向き合うために生活パターンや学習習慣を確立することは容易ではありませんでした。以降では、このプロセスの体験をご紹介します。

自分なりの作法と儀式を作る

 さて、具体的な私の「学校に行かないパターン」の過ごし方と学習方法についてお話しします。

 まず私の場合は、学校に通うことで学生が得ている教育の機能を要素化して下記のように紙に書いてまとめました。

 1:基礎学力(国語:文章の読み書き・算数/数学)の向上

 2:日常の習慣化

 3:適度な運動

 4:友達作り

 5:主要5科目の勉強

 6:勉強の仕方の習得

 以上のことを今でも記憶している理由は、それがちょうど最初は5個になったため五角形の星を書いて、それぞれの三角形に目標を書いて最後に星の真ん中に6「勉強の仕方の習得」を当てて日課を書き入れ、その星を部屋に貼って何度か振り返っていたからだと思います。

 このとき「1:基礎学力(文章の読み書き・算数/数学)の向上」と「5:主要5科目の勉強」を分けて考えるに至った理由を説明します。自分は当時、机に向かう習慣化がうまくできず学習計画を立ててもそれを自分で守ることに苦労をしていました。学校に行かない自分は机に向かうことにグズグズして学習の開始に時間がかかったり、参考書を開いてもすぐにゲームをしたり音楽を聴いたりして集中できなくないことが頻繁にありました。どうして自分が勉強に集中できないのか……未来につながらない無駄な時間ばかり過ごしてしまい自分のことを嫌いになりそうでした。ある日に鬱々とした気持ちで「勉強の仕方」を近所の百貨店の本屋さんで立ち読みして調べてみました。

 それで分かったことは、学習の習慣化のためには①明確で、②短時間で終わる、③単純な、④考えなくても手を動かして実行できるタスク、を用いて必ず毎日の学習の最初はそれからスタートする、という儀式となる取り組みを設定する必要がある、ということでした。つまり朝起きて洗顔してコーヒーを飲んで、机に向かったらまず儀式タスク(「1:基礎学力(文章の読み書き・算数/数学)の向上」)から学習をスタートする、ということをまずは習慣にしました。具体的にやっていたことは、下記のことです。

 1:漢字のドリルを1ページ(だいたい回答に5分程度、丸付けに5分で10分程度)をする。

 2:間違った漢字を3回ずつ書いて練習する

 3:百マス計算(たし算、引き算、割り算、掛け算)を時間を図ってする。かかった時間を記録する

 以上のタスクはだいたい終わるのに30分くらいですが、これを自習導入の儀式タスクにして欠かさず取り組むことにしました。これが自分にとっては成功して、やらねばならない学習にスムーズに入っていくことができました。

 その後、大学受験期に入ってからも、この儀式タスクは形を変えて継続できるいい習慣になりました(ただ内容は語学の単語帳作成などに変わりました)。

 次回は自分にそんな新しい習慣を次々にもたらしてくれた、「2:日常の習慣化」についてご紹介したいと思います。

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